社会が抱える問題

「自治の思想」に関する3冊と、健全な社会生活のために取り入れたい考え方

2022年2月21日

自治の思想

最近、自分の興味の向くままに下記の本を読みました。

『アナーキック・エンパシーのすすめ』

『イドコロをつくる』

『自然の哲学』

これらの本を読んで、身の回りを自分でコントロールしたいと思う人や資本主義、市場主義的な世界にちょっと抵抗したい人が増えているのかなと思ったりしました。

こういう本が流行する背景

これらの本はなんとなく手に取ったけれど、共通するのは自分でコントロールできる領域を身の回りに作っていこうと考える思想です。

最近では、無政府主義的な思想ではなく、自治的な領域を身の回りに作ることで自由を獲得していくという意味でのアナキズムも流行ってきているようで、自分も自然にそういう本を選んだのだと思います。

このような本が流行る背景には、資本主義的、能力主義的、個人主義的、消費主義的、都市的、、、な現代生活に疲れた人が増えてきたのだろうと思います。ちょっと前には『人新世の資本論』のようなマルクス的な社会主義を捉え直すような本が異例の大ヒットになりましたし、経済活動を規範によって修正しようとするSDGsもそうですし、なぜ社会にはつまらなくてやりがいがなく、意味を感じられないような「ブルシットジョブ(クソみたいな仕事)」ばかりなのか?と論じたグレーバーの『ブルシットジョブ』も同じ流れで「今のままの資本主義はどこかで見直さないとやばいのでは?」という風潮があります。

やはり根底にあるのは資本が自己増殖しようとする資本主義があるのでしょう。そのために、この社会で経済活動をそのままにしておけば格差は拡大するし、能力主義ははびこるし、あらゆる環境は資本とみなされて開発されるし、伝統文化や地域社会などの共同体は解体されて、個人がアトム化し、行動が消費主義的になっていく、、というものなのでしょう。

こんな社会への警鐘は何十年も前から鳴らされているのですが、ここ数年になって問題意識を持って自分の生活を変えようとする人が増えている(ように見える)のは、問題が自分の生活にまで及んできたことを実感しているからなのだろうと思います。

簡単にまとめてしまえば、資本主義や大企業、政治権力のような大きな力によって人生が左右されないように、お金によらない関係性やコミュニティ・居場所を増やそう、大企業依存じゃない生活を工夫しよう、消費活動以外に楽しみを持とう、持続可能な生活をしよう、という方向に興味を持つ人が増えてるのでしょうね。私もそういう一人です。下記に読んだ本を軽く紹介します。

『他者の靴をはく アナーキック・エンパシーのすすめ』

日本では「エンパシー」というと共感する力と訳され感情的なものと考えられることが多いと思われますが、それに対してこの本で説かれるのは「コグニティブ・エンパシー」というもの。これは意識的に相手の立場に立って考える能力のことです。相手の立場に立って考えるということができなければ、課題が山積みの政治を考える上でも、対立する相手のことが理解できず分断が広がります。逆に感情的なだけの共感(エモーショナル・エンパシー)であれば、相手に同調して理解してしまうばかりで、自分の意見が強い主張をする相手によって簡単に曲げられたり、強い人の立場を理解して自分の利益、権利を主張できなくなる、ということになってしまう。そのため「コグニティブ・エンパシー」という能力を意識的に身につけ、意識的に使うことが大事なのだそう。このような能力がタイトルでは「他者の靴を履く」こととされています。これは自分の身近なコミュニケーションでも大事でしょうが、自分たちで政治に参画して社会を良くしていくためにも必須です。

デイヴィット・グレーバーは民主主義的な社会を立ち上げるために、エンパシーが必要だと考えたようです。違う考え、信条を持つ人が集まって話し合い、落とし所を見つけて解決していく実践が民主主義であり、またそのために必要な能力が「他者の靴を履く」能力です。エンパシーの能力があることで、異なる考えを持つ者同士が共生する社会を作っていくことができます。このようにエンパシーの能力を土台に民主主義を立ち上げることで、強者によって自分たちの生活が脅かされないような自治的な領域を広げていくこと、それがこの本の中でいわれるアナキズムなのかなと理解しました。

アナキズムというと、無政府主義的な危ない思想だと考えられることが多いと思います。しかしこの本でいわれており、また最近流行しているようなアナキズムはそういうものではないようです。政治権力などの大きな力によって自由を奪われないように、自分で自分のことを統治する(self-governed)ことが大事で、そのための実践を身近なところから行うことがここでいうアナキズムのようです。私も、このような思想であれば生活に取り入れたいと思いました。また、エンパシーの能力を土台に身近なところから民主主義を立ち上げるというのは公共哲学的な考え方かな、と思いますが、これも日本の政治にはない市民の在り方として理想だと思います。とはいえ、この辺は政治における市民の参画としていろいろとこれまでも議論があった分野だと思います。結局のところ、この本にあることを突き詰めると、理想的な民主主義の在り方についての議論と合流していくのではないかと思いました。

ただ、このような自分で自分の身の回りと統治できるような「主権在我」的な生活を目指す人は増えているように思います。地方移住やFIREを目指す人なども、大きく捉えるとそうなるのではないしょうか。まずは、政治的レベルより生活、経済、仕事レベルでそういう変化が起こってきている、という気がします。

『イドコロをつくる』

この本は、資本主義的なプレッシャーを与えてくる社会に対して、潰されないように対抗しながら工夫して生活していこう、という内容です。念頭に置かれているのは、社会生活をするうちに「正気を失ってしまう」ような人(というか人をそうしてしまう社会?)のようです。普通に働いているだけでも心の健康を害してしまったり、犯罪に走る人がいます。そのように異常に走らないでいいように、身の回りに健康的な環境を作っていこう、という思想だと理解しました。その具体的な方法としては(1)小さくても自立した経済を作る(2)プレッシャーを無効化できる時間や場を持つ、というものが大きく挙げられています。

現代の日本は、都市化によって常にのしかかる精神的負荷から逃れる(軽くする)場が少ないと著者は考えているようです。ホッと一息つけるような場所、時間がないということだと思います。物価も家賃も高く、人が多い分競争も激しいため、常に働くこと、稼ぐことを強いられるし、電車に乗ればコンプレックスを刺激したり消費を煽る広告がいっぱい。一息つこうと飲食店などに入れば、人がギュウギュウで、回転率を上げるために効率的に設計された店内では長居できる雰囲気ではない、、など。そのため、正気を保てるような空間、時間を意識的に作っていくことが大事であると。

そこで著者が主張するのが「イドコロ」です。特に「獲得系のイドコロ」という「強い趣味の集まり」「公共の気に入った場所(公園など)」「落ち着ける小さい個人店」「有志のオープンな空間」「文明から離れて一人になれる空間」などがあげられています。確かにこれらを意識的に見つけて、自分のイドコロにしていけば、ホッと一息ついて正気を保てそうです。都市的な生活をしていると、人が助けてくれるという世界観を失ってしまうし、仕事外で他人と協力して何かをやる、という作業をする機会がありません。そのためイドコロを作って、経済活動を目的としないことをやる、お金が関係しない人間関係を取り戻す、ということが大事ということのようです。

このようにイドコロをつくることで、社会のプレッシャーから距離をおいた領域を作っていくというのは、最近流行りの穏健なアナキズム的思想の実践だと思いました。特に、このレベルのものなら誰でも実践して生活に取り入れやすいです。こういう生活の延長で、自分なりの事業をもったり、「ブルシット・ジョブ」じゃないナリワイ的な仕事を作っていく人も増えそうです。

『自然の哲学』

この本では「自然(じねん)」という概念をキーワードに昔の日本が持っていた環境、秩序の意義を論じています。自然(じねん)とは、自ずから然るべきようになる世界を表す言葉なのだそうです。現代社会では自然環境の問題や社会問題など、自ずから然るべきようにはならない世界になっていますが、これを自ずから然るべきようになる世界にしていくにはどうしたらいいのか?近代以前、江戸時代の日本社会の持続可能な仕組みなどをピックアップしつつ論じています。

現代において田舎に住むと「日本国」「村」「生国」という3つのレイヤーで生きることになるのだそうです。逆に都市に住めば「日本国」という1つのレイヤーで生きることにしかならない。「日本国」は「カネの物語」に支配されたレイヤーであるため、そこだけで生きると助け合いがなかったり、稼ぎ続けないと生活できなかったり、消耗しやすいということのようです。「日本国」では、人為的に取り決められたルールで営まれているため、金のやりとりばかりを中心に考えてしまいます。カネの物語で支配された世界では、人間関係はお金を媒介したものになり、助け合いがなくなり、温かみのある人間関係が減っていきます。その結果、豊かな経済活動ができない多くの人は消耗していってしまいます。さらに、カネの物語の世界では、企業が問題を起こしても誰も責任を取ることができません。株式会社の場合、株主は会社を所有しますが株主総会でしか経営に参加できないし、労働者は株主のために利益を出すための行動をしなければならないからです(このあたりは奥村宏の『法人資本主義の構造』とかに詳しかった気がします)。

会社は資本のものであり、資本は自己増殖しようとするのが資本主義社会です。そのため、資本の自己増殖に任せて経済活動を進めてしまうとさまざまな社会問題、自然環境の問題が起こってしまいます。しかも、誰も責任を取ることができません。

その例として大きく取り上げられているのが、水俣病を引き起こしたチッソです。ここで引用されているのは緒方正人さんという水俣病の当事者である方が書いた『チッソは私であった』という著作です(これは私も読みましたがとてもいい本でした)。

この本では、緒方さんがチッソを訴える活動をする中で、どれだけチッソや行政と話を進めようとしても、出てくる人間がどんどん変わっていく。しかも、出てくるのは会社で働く労働者の一人に過ぎず、巨悪的な人ではない。チッソの中にいるのも同じ人間であり、悪いのはシステムである、というようなことに気づきます。それなら、もしかしたら自分がチッソの人間だった場合、同じことをしてしまっていたかもしれない。そういうことに気づいていく話が出てきます。これはまさに、株式会社という資本を増殖させる組織では、誰もその行動の責任を取れないし、止められないということなのです。

このように、消耗しやすく、問題も起こりやすい「カネの物語」に支配された社会を変えていくためにはどうしたらいいか?というと、著者はこのような「カネの物語」は心の中にしかないのだから、それは書き換えていけばいいのだと主張します。具体的には、お金への依存を減らしていく(必要なものを見極める)、大企業の製品より身近な個人事業を営んでいる人や職人などから買う、贈与、クラウドファウンディングなどを活用し、通常の消費行動と異なる関係性を作っていく、など。また、著者は、経済成長が終わり、地方に課題が多い現代の日本社会では、田舎で農林業をやる方が社会に役立つということもいっています。都市で暮らすと「日本国」のレイヤーでしか生きることができず、「カネの物語」に生活が支配されてしまいますが、田舎に住めば「村」「生国」というレイヤーでも生きることができる。そこでは、カネの支配に限らない人々との関係、自然との関係を作っていくことができるということのようです。

私は、資本主義社会が「カネの物語」という心の中を書き換えるだけで変わるというのはどうかと思います(具体的な社会経済構造として存在するからです)が、身近なところから行動を変えていくことで、資本主義に修正、改善を迫っていくということは重要な考えだと思います。特に日本には、江戸時代に代表される持続可能で安定し、人々が豊かさを享受できた社会のモデルがありますし。昔が全て良かったとはいえませんが、過去から学ぶことで現代社会を良くしていくことは大事だし、自分や後の世代の人々のためを考えると義務だと思います。

自治的な思想に対して思うこと

私は、資本主義的な、都市的な、消費主義的な生活には問題も多いと思いますし、そこから脱したいと思う人の気持ちもよくわかります。私自身、少しずつそういう生活から脱して、心身ともに健康で「ナリワイ」的な仕事にしていきたいと考えています。しかし、一方で今の社会に問題があるからと一方的に批判するだけの態度も、問題から目を背けて「今を楽しむことだけやろう」という態度も好きではないです。また、一定の貯蓄をして金利収入だけで生きていくFIRE的な生活も目指す人が増えているそうですが、ただこの社会システムから逃げてしまって世捨て人的な生活をするだけだとしたら、それも賛同できません(本当に病んでしまった人の最後の手段としては否定しませんが)。

問題は山積みであっても、自分たちは今の社会によって生かされているものだと思います。田舎に土地を買ったり、働いてお金を貯蓄したりして財産を得ても、それを奪われないのは法・裁判制度や治安維持といった行政システムが機能しているからですし、都市から離れてネット環境を持ち、ネットフリックスが楽しめるのも大資本による経済システムが機能しているからですし、万が一の時に医療機関に頼れて3割負担以下で済むのも、医療システムが機能しているからです。国内ならどこに住んでいても大体同じものが手近な店で買えたり、Amazonから買えたりするのは、小売や流通システムのおかげです。

今の生活を享受しておいて、そのシステムを維持する様々な仕事を「ブルシット・ジョブ(クソみたいな仕事)」と切り捨ててしまう態度には、無責任さを感じます。うまく抜け穴を探して自分はしかるべき負担をせず、他人に負担してもらって賢く生きようというスタンスも同様です。

心身健康な大人であれば、システムを批判したりそこから逃げることを考えるのではなく、それをどう修正、改善して良くしていくか?ということを考えて行動することが、身の回りや後世の人たちに対する義務だと思います。また、システムが悪いからとどこかに巨悪が存在するかのように考えることも、システムを抜本的に変えてしまおうとするユートピアニズムも、私は精神的な逃避行動だと考えています。

一人でできることは限られていて地味なのですが、それでもできることをやっていく。自分の働き方や消費行動からかえてみる。そういう思想と解釈するのであれば、身の回りに自治的な領域を増やしていこうという思想は賛同できます。私のように自分の生活で精一杯な庶民でも、自分の生活から少しずつ変えていく、コントロールできるようにしていく。身近な人との関係性を「エンパシー」を土台に変えていく。そういうことであればできそうだな、と希望を持てました。

-社会が抱える問題