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ヌスバウム『経済成長がすべてか?-デモクラシーが人文学を必要とする理由-』の要約・感想

2020年7月30日

マーサ・C・ヌスバウム(著)、小沢自然、小野正嗣(訳)『経済成長がすべてか?-デモクラシーが人文学を必要とする理由-』は、アメリカの政治哲学者ヌスバウムが、現代社会における人文学の軽視を問題意識にし、批判的思考力や共感の能力を身に付けられる人文学やその知見を利用した教育法の価値を提唱している本である。

ルソー以来の教育・ソクラテス的な教育

ヌスバウムがこの本で多くの紙幅を割いている、現代教育の問題(全国統一試験、標準化した教育、暗記中心、芸術や文学を利用して創造性を刺激するような教育がないことなど)は、日本の教育についてもすでに論じられてきたものだと思う。そこにそれほど斬新さは感じなかった。

ヌスバウム

マーサ・C・ヌスバウム(Martha Craven Nussbaum) 引用元:Wikipedia

また、アメリカの教養教育の伝統やインドの一部の教育を、ヨーロッパやアジアの暗記型教育と対比させ、アメリカの教養教育やルソー以降の西洋の教育の伝統こそ唯一の正解であるかのように論じるのは、やや単純化しすぎた議論であると感じた。湯川秀樹は、確か漢文の暗記教育を受けたことが自らの創造性に繋がったと語っていたはずである。

それに、ヌスバウムが提唱するソクラテス的な教育(少人数クラスで討論、批判を中心的に行う教育)は、現代の日本でもその必要性は論じられている。もちろん、実践されているかというと一部にとどまるだろうが、あらためてそこを指摘するだけでは、それほど新しい議論には見られないだろうと感じた。

しかし、これらの点があったとしてもこの本の価値は非常に大きいものである。

人文学の意義

この本の見るべき点は、実用的で現実の問題解決に役立ち、また個人の人生にとっても経済的に成功する、仕事に繋がりやすいという科学、工学(また経済学や経験的な政治学も加えられている)といった分野に対して、直接的な問題解決や経済的成功に繋がらないと考えられることが多い人文学にはどういう価値があるのか?という問いに対して、それはデモクラシーの維持ためであるという簡潔な答えを提示している点であると思う。

デモクラシーを正しく理解しない人々による社会は、対話や討論、健全な批判による問題解決や市民としての政治参加といった行為が軽視され、暴力や過激な言論がはびこり、権力者を正しく批判しない社会になる可能性がある。現代では、政治的な党派性の拡大、さまざまな社会問題をめぐった対立、分断、エスニシティや宗教をめぐる問題などが発生し、本来粘り強い、理性的な対話によって解決を目指すべき問題が、解決されないまま分断を大きくするような事態が多く発生している。このような時代に、人文学がデモクラシーのために必要であるという主張は非常の意義がある。

経済成長のみを成果として教育が行われれば、技術的な教育が中心となり、正しく政治参加できる市民が育成されない。人文学の重視は目先の経済成長ではなく、人類社会全体にとって価値のあることなのだ、というのがヌスバウムの主張であった。現代社会では、利潤獲得のために教育が重視される一方で、包括的な市民精神のための教育、人間性を涵養する教育がないがしろにされている傾向があり、それは人類社会に負の影響を与える。ヌスバウムは繰り返し主張する。人文学の批判的思考や省察の能力は、「デモクラシーを存続させ、活発にしておくために不可欠(13頁)」なのだ。

書き抜き

読む人によっては「理想的すぎる」と思われるかもしれないが、このような健全な知性が存在すること、一般社会に向けてこのようなことが語られ続けることは、特に今のような時代には非常に重要であるように思う。

特に重要と感じた点を引用する。

「つまり魂とは、私たちを人間的にする、そして私たちの関係を単に利用したり操ったりするのではなく豊かで人間的なものにしてくれる、思考と創造力の諸能力のことなんです。私たちが社会で出会う時、自己と他者をそのように見えることができなければ、互いに内側にある思考と感情の能力を想像できなければ、デモクラシーは確実に挫折します。デモクラシーは経緯と関心の上に成り立っていますが、経緯と関心は、相手を単なる対象としてではなく人間存在として見ることのできる能力の上に成り立つものだからです。」8頁

「しかし経済成長を重視する教育者は、芸術を無視するにとどまらず、芸術を恐れるのです。なぜなら、深く培われた思いやりの心は、鈍感さにとってはとりわけ危険な敵ですが、不平等を無視する経済発展計画を実行するには、道徳的な鈍感さが必要だからです。人間を操作すべきモノとして扱うのは、そのような見方しか学んだことがなければ、簡単なことです。タゴールの言ったように、攻撃的なナショナリズムは、道徳的な良心を鈍麻させることを必要とするのです。つまり、個人というものを認めず、集団の名のもとに喋り、従順な官僚のように行動し世界を眺める人間を必要としているのです。」30頁

「不決断というものはたいてい、権威への服従と仲間の圧力によってさらに悪化するものです。先述したように、これはあらゆる人間社会に内在する問題です。議論そのものが重視されない場合、人間というものは、話者の名声や文化的威光に、あるいは仲間文化の傾向にたやすく影響されてしまいます。対照的に、ソクラテスの批判的探求は完全に反権威主義的なものです。重要なのは話者の地位ではなく、ひたすら議論の中身なのです。」67頁

「他人に対して真の関心を抱けるようになるには、いくつかの前提条件があります。そのひとつは、ルソーが強調したようにある程度の実際的な能力です。自分でいろいろなことができる子どもは他人を自分の奴隷にする必要はありません(中略)二つ目の条件は、嫌悪感と恥辱感について述べたときにも強調しましたが、完全な統制など不可能であり、よくもないということ、世界とは、誰しもが弱さを抱えた私たちが互いを支えあう方法を見つけなければならない場所であることを認識することです。」126頁

「生きる価値のある世界を、敬意と思いやりに値する独自の思考や感情を持った十全な人間として他人を見ることができる人々を、共感と理性に裏打ちされた議論によって恐怖と疑念を乗り越えることができる国々を、人文学と芸術は作り上げているのです。」182-183頁

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