社会が抱える問題

『仕事なんか生きがいにするな』から自律的な生活を望む流れを読み取る

仕事なんか生きがいにするなの感想

『仕事なんか生きがいにするな』という本を読みました。タイトルは少しキャッチ―ですが、現代人の働き方、生き方を根底から問い直すようなとてもいい本でした。

産業革命以降、分業化がすすみ、つまらないものになっていった「労働」を現代では評価しすぎており、労働(仕事)を頑張ることが賛美されるようになってしまっています。

しかし、そのような労働賛美が人を精神的に追い込んだり、そうでなくても創造性を失わせ、生きることをつまらないものにしてしまっている、そのような内容です。

この本は、多くの現代人にとって生き方を問い直すきっかけになるでしょう。

また、私はこの本を読みながら、以前紹介したような「自治」的な思想が流行ってきている流れと同じものを感じました。

さらに言えば、私がやってきた武術というものの現代における可能性や、伝統文化の見直しにも関連してくると思います。

この本の内容に触れつつ、自分の仕事、生活、生き方を取り戻していく「自治」的な思想がより大事になってきている、ということについて書いていきます。

1章:現代社会が抱える問題点

1-1:つまらなくなった仕事(労働)

この本はタイトルにあるように、現代人の「仕事(労働)」の在り方を根本的に見直すことがテーマとして貫かれています。

現代では、仕事が「つまらない」「やる気が出ない」「やりがいがない」と感じる人が少なくないようですし、精神的に追い込まれてうつになったり、自殺する余多の人がいます。

このように仕事で悩む人が増えた理由として、この本であげられているのが、本来「人間的な手ごたえが得られる」はずの仕事が、「労働」に置き換わってしまったためです。

産業革命以降、人々の仕事は際限のない効率化が求められた結果、分業化が進み、一人ひとりが工夫し創造する余地がなくなっていきました。しかし社会的には、労働は経済発展に必須のものとして高いレベルで要請されるようになっていきます。

さらに、ジョン・ロック、アダム・スミス、マルクスらの労働価値説によって、労働が富を生み出す源泉とされたことで、労働の評価はあがっていきました。

こうして、社会の変化と思想の変化から、仕事(労働)の価値が高くなっていったのが歴史的な経緯であると著者はまとめています。

1-2:労働教に支配された現代の社会人

「社会人にとって、働くことが大事なのは当たり前だろう」と思ってしまう人も少なくないと思います。

しかし、著者によれば、このような労働の価値を非常に高くみるのは現代人的なメンタリティで、歴史的に見ると新しいものであるようです。

このように「労働」の価値が高くなった理由として、1-1に書いたような分業化や労働価値説だけでなく、経済原理があまりにも人々の精神に浸透した、という理由もあると書かれています。

そもそも、資本主義以前の時代の民衆は、身の回りのものは自分でつくったり、身近な人と交換したりして、一部の入手できないものだけお金を使って購入する、という生活をしていました。

しかし資本主義社会が高度に発展した現代では、自分でものをつくることなど少なく、さまざまなモノやサービスをお金を使って消費するようになりました。また、多くの社会人はそのモノ・サービスの供給者側としても働くために、消費と供給(仕事)の両面から経済原理が精神に浸透した、と言えるでしょう。

その結果、「役に立つこと」「おもしろいこと」「わかりやすいこと」といった価値観が、非常に重視される社会になっていきました。(たとえば、書店やビジネスマン向けのウェブサイトを見れば、効率的に、合理的に、スピーディーに、成功を目指すためのノウハウを「わかりやすく」提供する多くの情報を目にします。)

逆に「すぐに役立たないこと」「すぐに面白さが分からないこと」「分かりにくいこと」などは、多くの人が見向きしなくなっていきました。たとえば、伝統的な芸術・文化や難解な学問などです。

参考▶なぜ伝統を守る必要があるのか?伝統を守りたいなら理由を説明できるようになるべき

こうして、人生が「労働」して「消費」するだけのものに変質していったために、多くの現代人は「労働教」とも言える価値観に囚われている、と。著者の主張を私なりにまとめると、こういうことになると思います。

1-3:質を問わなくなった社会の変化

こうして、やる意味を感じられないような、分業化された「労働」を必死に頑張り、その一方でやはり「労働」によって創り出された消費財を「消費」するだけの社会では、仕事の質が問われなくなっていきます。

「安い」「コスパがいい」「便利」「スピーディー」といった量的に把握できるものに価値があると考えられ、作り手の思想やこだわり、高い技術が問われることはなくなっていきました。

より売れるモノ・サービスをつくりだそうとするほど、多くの人が受け入れるような価値観に従って「労働」するしかなくなります。

こうして、質を問わないモノ・サービスを消費するしかなくなり、意味を感じられない「労働」ばかりで生活する現代人は「やりがいがない」「働く意味(生きる意味)が分からない」「毎日つまらない」といった実感に支配されるようになっていきます。

もちろん、このように悩んだり不安を持つ人は、社会の一部に過ぎないかもしれません。しかし、私はこの本を読んで、むしろ悩んだり病んだりしている人の方が、現代ではまともな精神を持っている方なのかもしれない、と思いました。

2章:生き方を問い直すには心・身体を重視する

私を含めた一般庶民は、一人で社会を動かすようなことはできませんので、生活の多くを社会に規定されてしまいます。そのため、1章で説明したような現代社会の構造を知ったところで「どうすることもできない」と思ってしまいます。

しかし、自分でコントロールできる身の回りの生活や働き方については、心掛け次第で変えていくことが可能です。この本で書かれていることから、簡単に説明します。

2-1:頭・理性中心から、心・身体中心になること

1章で現代社会の特徴について書きましたが、現代は「頭・理性」に頼って判断し、行動することが過剰になっている社会でもあります。

著者によれば、私たちの頭は質を直接認識できず「量」に落とし込んで認識しようとするものだそうです。そのため、私たちは本来の幸福を目指さず、社会で量的に判断しやすい価値に頼って行動してしまいます。それが学歴や収入、社会的成功なのでしょう。しかし、このような価値に頼った判断は、頭の錯誤である可能性もあります。

そのため、頭・理性によって判断せずに、心・身体による感じ方を重視することを著者は提唱しています。

よく生きるためには「生きる意味」と真正面から向き合うことが必要ですが、それは「生きる意味」を頭で考えるということではありません。そうではなく、心・身体でさまざまなことを味わい、喜ぶことによって実現されるものなのだそうです。

たとえば、この本の中心テーマである「仕事」についても、頭でキャリアを考えて合理的に判断するだけでは、頭過剰であり、幸福に生きることに繋がらない間違った選択をしてしまう可能性があります。

そのため、心での感じ方、身体での感じ方、反応に意識を向けて判断する。その働き方で心に無理はないか、身体に悪い反応は出ないのか、心地よさを感じられるか、そういったことを判断基準にしていく。頭過剰から脱していく。そういうことを著者は言っているのだと私は捉えました。

2-2:限られた職業の中から生き方を選ばない

著者の主張の中でも、より具体的なのは、限られた職業の中から生き方を選ぼうとしない、ということです。

自分の生き方で悩む人は「本当の自分」になることを求めて、いろいろな職業を検討したりしがちです。しかし、真の自己を外に求め、しかもそれを「職業」という狭いものに求めていると「本当の自分」を見つけることなどできないとしています。

既存の選択肢の中からきりのない職探しをするのではないのです。

「一個の人間は一つの職業に包摂されるほど小さくはない」

「『労働教』から脱して、今一度、大きな人間として復活する」

そのために、すでにある仕事から自分に合うものを選ぼうとするのではなく、まず日常生活を変えていくことが大事である、そのために「遊び」を大事にすることを主張しています。

2-3:「遊び」がある日常にしていく

「遊び」というと、忙しい社会人にとっては「忙しい仕事の後にくるご褒美」という位置づけかもしれません。余裕がないから「遊び」なんて言ってる余裕はない、という場合もあると思います。

しかし、労働に支配された生活、価値観から脱して、よりよい人生を送るために、著者は積極的に「遊び」を生活に取り入れていくことを主張しています。

ここでの「遊び」は、単に娯楽的な消費をすることではなく、日常のすべて、人生のすべてにおいて創造的に過ごすことができないか、工夫することです。

一例としてあげられているのは料理です。

忙しい社会人は、食事を外食などで過ごしたり、必要な栄養を満たしていれば大丈夫と、サプリメントなどで管理したりする場合もあると思います。しかし、これこそが頭・理性で合理的に行動しているもので、心・身体で味わっていないということです。

料理は日常の中で創造的に行える行為ですので、コスパや栄養学から考えるのではなく、心・身体を使って工夫し味わうようにするべきだと書かれています。

料理は一例ですが、このように「めんどくさい」「無駄なことをしたくない」と頭で思ってしまうようなあらゆることを、創造的にできないか工夫してみることが大事だということです。考えようによっては、食事、料理以外にもさまざまなことで、手間をかけたり、こだわりを持ったり、楽しんだりすることを重視して工夫することは可能でしょう。

もちろん仕事が忙しすぎて、他の生活に時間をかけられない場合もあると思いますが、嫌いな仕事でそれほど忙しくなっているのなら、生き方を再検討するべきだということかもしれません。

3章:自治の思想が重視される流れは続く

以前、下記の記事で、最近になって「自治的な思想」が流行っている、ということを書きました。

「自治の思想」に関する3冊と、健全な社会生活のために取り入れたい考え方

簡単に言えば、複雑化し個人を縛るようになった社会経済システムに対して、自分のことは自分で統治する、ということを考える人が増えているようだということです。価値観や生活、仕事の仕方までも再検討し、新たな価値観・ライフスタイル(社会経済のシステムに飲み込まれない価値観・ライフスタイル)を生み出そうとする流れです。

『仕事なんか生きがいにするな』を読み、この本も自治的な思想と繋がってくると感じました。

たとえば『半農半Xという生き方』や『イドコロをつくる』などの本を過去に読みました。これらに通底するのは社会経済のシステムにゆがめられた労働と距離を取り、自分なりの働き方や生活の仕方、生き方を創造しよう、という考え方であると思いました。

同様のテーマは最近多いと感じます。政府や経済の大きな力に左右されないために、独立的に生活を創っていく、自治的な空間をつくっていく、というような思想であるようで、潜在的にこのような思想に希望を持つ人が増えているのではないでしょうか。

私としては『仕事なんか生きがいにするな』に書かれているように、消費的な生活や世間的な評価という価値観を脱して、本当に自分の理想の生き方を追求し仕事を創造する人が増えれば、日本社会全体の成長にもつながると考えています。

もちろん、「労働」からいきなり逃避しようとしても生活が行き詰ってしまいます。そのため、このような考えを少しずつ取り入れ、生き方、働き方を再検討し、現実的な行動をスモールステップで行っていくことが大事です。

そのような実践の先には、大企業と核家族という共同体が中心の社会ではなく、単なるゼロサムゲーム的な奪い合いの「儲け」ではなく、さまざまな価値観、目的を追求する共同体的組織、自営業、中小企業が多く存在する社会があるのではないかと思います。

4章:武術は身体性を取り戻す一つの身近な手段になり得る

ここまで書いたように、労働教から脱して、自分の生き方を創造するために、日常生活の中で心・身体の感じ方を大事にしていく、ということが大事なのだと著者は主張しています。

これを読んで私は、自分が行ってきたような武術の鍛練は、心・身体の在り方を日常の中に取り戻すとてもいい手段になるだろうと思いました。

武術の本質は、歴史的に形成されてきた武技を用いて、生命を懸けた勝負で負けないことにあります。そのため、ただ強い攻撃力を持っているだけでなく、相手のわずかな動きを察知する、相手の心の動きを読む、という要素も重要になります。

さらに言えば、真剣勝負の場を想定し、そこで揺らがない心を身に付ける、というのも重要なことです。

また、日常的な鍛練においても、自分の身体をより正確に、精妙に動かせるように身体と向き合い続けなければなりません。どれだけ頭が良くても、武術で上達するためには、身体と心に真剣に向き合わなければならないのです。

スポーツよりも、より質的に異なるレベルでの精妙さ、真剣さが求められるため、武術の修業は心・身体の在り方と向き合うのに優れています。

このような意味でも、武術は現代人にとっても必要なものではないかと考えられます。

まとめ

『仕事なんか生きがいにするな』は、今の働き方をすぐに変えてくれるような本ではありませんし、これを読めば新しい生きがいをすぐに見つけられるわけでもありません。むしろ、そのようなインスタントな考え方と距離を取る本です。

それだけに、自分の生き方を深く見直し、新しい働き方やライフスタイルを創造したいという方におすすめです。

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