認められたい

雨宮処凛、萱野稔人『「生きづらさ」について-貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』の要約・感想

2021年4月29日

この本は2008年に出版されたものだが、2021年の現代でも「生きづらさ」を抱える人は減ってないように思う。個人的な感覚としては、多くの人が、いろいろな形で「生きづらさ」を感じつつも、この「生きづらさ」は何なのか、どうしたら脱することができるのか、分からないままになっているのが現代社会ではないか。

この「生きづらさ」について、個人的な立場から解決しようとする情報は多い。つまり、どういう生き方をすれば楽か、どうすれば金が稼げるか、どうすれば精神的にタフになれるか。こういった処世術の方法は、ネットにも書籍にもあふれている。どうしたらサバイバルできるか?ということについて、多くの人が情報を求めている。

しかし、この「生きづらさ」がどういう社会構造から出てくるものなのか、明らかにした情報は少ない。少なくとも、一般的には知られていない。

この「生きづらさ」をめぐる問題について、元右翼で今ははさまざまな社会活動に携わる、作家の雨宮処凛と、津田塾大学准教授(当時)の萱野稔人が対談し、その内容をまとめたのがこの本である。

生きづらさの2つのタイプ

日本をおおう「生きづらさ」には、大きく2つのものがある。

1つが親からの虐待や学校でのいじめなどから生じる個人的・精神的なもの、もう1つが、貧困、社会で承認されないという社会経済的構造からくるものである。

もちろん、これらはまったく別問題ではなく、家庭や学校で傷つきトラウマを抱え、居場所がなく社会に放り出された人々が、今度はアルバイトや派遣労働者として働くしかなく、その結果、不安定な雇用で食いつなぐことしかできない状況に陥る。

もちろん貧困で、人とのつながりが得られず、社会的に無視されたような状態になる。

このように追い込まれた人々が今の日本には多く存在するのである。

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過剰なコミュニケーションを求める日本社会

この「生きづらさ」はどこから来るのか。

その1つは、過剰なコミュニケーションを求める日本社会の文化的な特質にあるという。子どもの世界でも、空気を読み合っていじめられないようにする。その緊張度の高いコミュニケーションのストレスを、一部の人をいじめることで発散する。

大人の社会でも同様である。

過剰に空気を読むことを強いられ、そこから逸脱する人を叩く。そういう日本社会の特徴がある。

さらに、産業構造の変化から、仕事において高いコミュニケーション能力を持っていることが、当たり前のものとされるようになった。

国際分業によって日本の産業の中心は「もの作り」的なものから、アイディア出し、企画、調整、管理といった本社機能的な業務が中心になっていった。サービス業も増え、多くの仕事で必要とされるコミュニケーション能力は高くなった。

そのため、コミュニケーション能力がない人々は、そのような業務からはじき出されてしまう。

また、家庭や学校で承認が得られず傷つき自信を失った人々は、高いコミュニケーション能力を身に付ける場を持たない。そういう人が、仕事の場においても排除される社会になっている。

前近代的な共同体は資本主義経済の発展によって崩壊し、人はそれぞれ自分で居場所を作らなければならなくなった。仕事は競争的になり、あらゆる場でコミュニケーション能力を発揮し、自分のことを認めさせなければならなくなった。

このような社会の中で、所属を持たない非常に脆弱な立場に置かれ、自身の抱える問題を社会化できない、そういう人々が多く存在している。

居場所を求めてナショナリズムに走る

著者の一人である雨宮氏や、家庭や学校で傷つき、フリーターとして若いころ生活していたという。フリーターの生活は、風邪をひいて仕事を休めばクビになるような厳しいもので、助けてくれる人もおらず、誰からも承認されない。しかし、自分としてはもっと承認されたい。癒されたいと思っていた。

そして、居場所を求めて右翼に入ったという。

右翼団体の中では、他者と競争する必要がなく、純粋に日本を良くするために連帯することができる。居場所のない人間は、そういう場所で初めて満たされる。

現在も、同様のフリーターや派遣労働者は多いと思われる。

特に、現代では「底辺」的仕事が外国人労働者との競争にさらされるため、そのような世界に生きる人は、外国人を忌み嫌う。外国人は、自分の競争相手であり、仕事を奪う存在であるからだ。

そのため、移民排斥を訴えるようになる。これは、日本に限らない現象である。

雨宮は、底辺で労働する人々がナショナリズムに走ることについて、下記のように書いている。

「一応、私たちは『頑張れば必ず報われる』という価値観のなかで勉強してきたわけですよね。(中略)けれど、社会に出たとたんに『経済成長はもう終わりました。バブルも崩壊しました。もう頑張ってもどうにもなりません』といわれ、梯子をはずされたような感じがありました。(中略)裏切られたなかでそれでも食べるためにやっている労働が本当に単純作業で、しかもそれを他の国の人たちと競争しながらやっている。そのうえ生活は食べていけないほど苦しい。そうなると日本人であるということでしか、彼らと自分たちを差別化できない。」(60-61頁)

自己責任の内面化

「底辺」的な働き方を続けるプレカリアート(不安定な働き方の労働者)は、自分がそのような状態になった原因を、自分のせいだと考えるようになる。

世の中にはびこる自己責任論を内面化してしまう。

そうなれば、弱い立場の人々で連帯することが難しくなるし、自分で自分を追い詰め、やがて自殺にまで繋がり得る。

そのため、こういう立場の人たちがナショナリズムに癒しを求めていくこと自体は、否定できない。それを、十分な教育を受けてきた安定した立場の人々が、上から批判したところで彼らには響かないし、意味がない。

「希望は戦争」論のように、戦争によって現在の秩序が転覆され、社会が流動化し、みんなが不幸になることを求めるような議論も生まれる。

また、中高年世代は、「昔はもっと貧しかった」といって現代の若者の現状を問題視しない、甘えたものとして否定する論調もある。

しかし、現在と昔の社会は同じものではない。

昔ではやくざがやっていたような弱者向けの中間搾取を、現在は大企業が派遣雇用として行っており、しかもそれが全産業に拡大している。また、貧困層を相手にさらに搾取する、パチンコ、消費者金融、保証人ビジネスなどもその周囲をかこっており、中には、派遣労働と消費者金融を同じ企業が行い、一つのパッケージとして事業を行っているケースすらある。

このような構造にはまってしまうと、働いてはパチンコをして、お金がなくなれば消費者金融から借りる。そして、借金が膨らみ、この循環から抜け出せなくなる。こうして、弱者を搾取することによって、成り立っている産業が存在する。

この構造は、昔はなかったものである。

法的に正当化され、大企業が堂々と搾取している。こういう所が、現在の社会構造の難しさである。

感想

漠然と多くの人が感じているであろう「生きづらさ」について、このように広く論じた本は少ない。学術的な本だと、特定のテーマにフォーカスしており、専門的ではあっても、テーマ全体を理解したい人の心には響かない場合もある。そのため、この本は自分にとっても納得感の大きいものだった。

私としても、「生きづらさ」の問題は、個人の精神的な問題と社会経済の構造上の問題があり、それぞれに対策が異なると考えていた。

個人の精神的な問題としては、そもそも競争を強いられ、自分を優れたものとしてアピールしなければならず、自分自身も、自分が優れていなければ受け入れられない、という人が増えているように感じる。自分の中にも、そういう部分を感じたことがある。しかし、自分の場合は、少しずつ思い込みを明らかにし、絡まったひもをほどくように考えを変えていくことができた。

一方、社会経済の構造上の問題は、それとは別の対処法が必要と思う。

格差や分断を生みやすい、個人を孤立させやすい、個々人が抱えた問題が社会化されにくい、そもそも貧困で生存だけで精いっぱいで、それ以上のことを考えたり実践することができない、という人が多い。心を病む人、「障害」扱いされる人が多い。格差、孤独を再生産する構造がある。こうした社会経済上の問題は、政治的に解決するしかないと思うが、それが可能なのかどうか。

現代社会特有の構造だろうから、過去の議論は参考にはなっても、大きな説得力はないように感じる。この構造がもっと明らかにされ、それが社会的な議論の俎上に載らなければ、変革は難しいのではないかと思った。

もう少し、このテーマについて調べてみたい。

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