武道・文化の課題

現代における武道を学ぶ意義

2022年2月26日

私は十代の頃から十数年間武道(空手、剣術)を修業してきました。

それも試合中心の競技的な武道ではなく、伝統的な、古流、古武道と言われる武道です。そのため、武道に馴染みの少ない周りの人からは「なぜそんなに熱心に武道をやってるの?」と言われたり、「結局、今みたいな時代には武道もスポーツのように誰でも気軽に楽しめるものに変化するべきじゃないの?」と言われたこともあります。

一方で、私が指導している方の中には長年、複数の古武道を鍛練してきた方もいれば、剣道経験者・有段者、ボディワークの指導者、舞台俳優から普通のサラリーマンの方までいますが、みなさん忙しい生活の合間を縫って、生活と一体化させるように熱心に稽古を続けられています。

このように、古流と言われる武道は、多くの人にとっては「なぜやるのかよく分からないもの」である一方で、私を含めた一部の人には情熱を注ぐ対象になっているのです。

では、大きく変わっていく時代の中でも、古い武道に根強い人気があるのはなぜでしょうか。私はそこに、時代の大きな移り変わりの中で、人々が無意識に求めるものが存在するからだと考えています。

「武道を学ぶことについて、そんなに重く考えなくてもいいのでは?」という考えもあるかもしれません。

確かに、個人的なレベルで言えば、ただ好きだから、面白いから、伝統文化に親しみたいから、などいろいろな理由で武道を続けているのだと思います。私自身、武道が続いている一番の理由は単に面白いからです。

しかし「継承」ということを考えると、個人レベルのモチベーションに頼るだけでは足りないと思います。私が継承する兵法二天一流は、流祖宮本武蔵が成立させてから約400年もの間継承されてきたものですので、私も数百年後の未来にも残るものとして継承していきたいと考えています。

そのためには、時代の変化に影響されない普遍的な「武道を学ぶ意義」が明確にされている必要があると思うのです。

このような意義を明確にする作業は、当流だけではなく、あらゆる古武道に、そしてあらゆる伝統文化に必要なことであると考えています。

そして、この武道を学ぶ意義を自分なりに考える中で、武道を学ぶことは現代人だからこそ必要なことではないかと考えるようになりました。

そこでこの記事では、現代における武道を学ぶ意義について、私なりに考えたことをまとめました。

※この記事では修業と修行を使い分けています。修業とは実体的な技の鍛練であり、修行とは精神的な鍛練のことです。

1章:武道とは何か

この記事では、現代における武道を学ぶ意義について私の考えを提示したいのですが、結論を言うと現代人だからこそ武道を学ぶべきなのだ、というのが私の考えになります。

しかし、その前に私が考える「武道」とは何か、簡単に説明しておく必要があります。

1-1:武道の定義

一般的には、武道と言うと「柔道」「剣道」「空手」「合気道」などのメジャーな武道が思い浮かべられるかもしれませんが、これは様々な武道をひとまとめにしたカテゴリに過ぎません。私の考える武道とは、日本の歴史の中で生成発展してきた技と精神の文化の粋のことです。その実体的側面が様々な、精妙な技であり、精神的側面が禅的な思想です。それらを表裏一体のものとして統合させたものが武道です。そのため、技だけを磨く武道も、スポーツ競技として発展した現代武道も、観念的側面に傾倒した武道も、私の考える武道とは異なります。

私のこの武道観は兵法二天一流の修業・修行の中で培われたものですが、直接には武道哲学者の南郷継正先生の著書から学んだものです。南郷先生によると、武道とは、端的には以下のものです。

「武道とは、武技を用いた生命を懸けた勝負の道」

しかし、武道とは一種のカテゴリであり、実際に存在するのは個別的な様々な武道です。そのため、それぞれの個別の武道の中にそれぞれの定義があり、兵法二天一流の場合は下記のようになります。

「兵法二天一流とは、二刀を用いた生命を懸けた勝負の道」

このように書くと、このような「武道」になじみのない多くの方にとっては堅苦しく、重く、難しいものと考えられるかもしれません。確かに、現在多くのメディアの中に登場する多くの武道は、このような定義からイメージしにくいものだと思います。それは、現代の武道の多くが、このような武道の本質から外れたものに変化していってしまっているからでしょう。多くは、たくさんの人が馴染みやすいように「スポーツ・競技」「護身術」「フィットネス」のような形に変化しているのです。

そのような現代武道に意味がないとは思いません。しかし、私が継承していきたいと考えている「武道」は、これとは異なるものなのです。そして、私の考える「武道」こそが現代という時代に大事にされるべきものだと考えているのです。

1-2:「武道」と「武術」の違い

また、近年は武術(古武術)もブームになっているようです。それは、古来から伝わる武術の中には、現代スポーツにはない不思議な身体操作、技があり、それが面白い、役立つと考えられているからでしょう。

しかし、この武術(古武術)も私が考える武道とイコールではありません。確かに、私が修業・修行してきた兵法二天一流も武術の一種ではありますが、武術というのは武道における技という実体的側面だけを切り取ったものであると思います。私が考える「武道」は、前述のように過去の武人たちが特殊な社会的背景の中で生成発展させてきた、精神的側面も大事にしたいものです。

そのため、私が考える「武道」とは、多くの現代的な武道とも、ブームになっている武術(古武術)とも異なるものなのです。

そこで、私が考える「武道」における精神的側面とは何なのか、もう少し具体的に述べる必要があるかもしれません。

1-3:武道の精神的側面の特徴(1)禅的な揺れない心

簡単に前述しましたが「武道」の精神的側面とは、端的に言えば禅的な精神であると考えます。つまり、どのような状況においても揺らがない心(精神)を身に付けるということです。日本における武道がこのような精神的側面を持つに至ったことは、その時代的、社会的な特性があったからだと思います。

かつて武士は自らの領地や家を守るために「一所懸命」に、つまり生命懸けで闘い、その中で必死に武技を磨いてきました。また、日本では日本刀を中心に武具が発達し、その扱いに長けることが自らの領地、家を守ることになったため、兵法(剣術、槍術から馬術まで闘うための様々な技術)が発達しました。そして、実戦を通じて武士たちが感じたのは、いかに技を磨いても心が揺れては思ったように技が使えない(死んでしまう)ということだったのだと思います。そのために、揺れない心を身に付けることが目指され、その中で日本特有の禅的な思想と結びついていったのだと思います。実際、多くの武士が禅の修行にも勤しんだようです。

こうして、精妙な技という実体的側面と、揺れない心という精神的側面を統合した「武道」という文化が生成発展したのでした。

1-4:武道の精神的特徴(2)道の精神

さらに言えば、芸道の中から形成された「道」という思想も、武道を文化的に発展させたのだと思います。「ただ単に強くなれれば良い」という考え方ではなく、その修業・修行のプロセスそのものを大事にし、武道を人格を陶冶する過程とも捉えるようになったのでしょう。そこには、かつては貴族に従属する軍人的な立場だった武士たちが、社会を統治する立場になり、儒教を学びつつ文化的な高みも身に付ける必要性があったのではないでしょうか。

こうして、単なる闘争の技術としての武術が、文化的に発展して「武道」となったのが日本の武道の特殊性であり、文化的な高みだと思います。

そのため私は、技を単純化して競技向きに変えていく現代的な武道の流れとも、精妙な技術だけを取り出していく武術ブーム的な流れとも異なる、武道としての本来の姿を大事にして継承していきたいと考えているのです。

このようにわざわざややこしい定義について述べているのは、現代の多くの武道を取り巻く議論の中で、武道における精神的側面があまり大事にされていない気がするからです。

また、その精神的側面こそ、現代における武道を学ぶ意義であると考えています。

しかし、このような歴史の中で形成されてきた武道の価値は、すでに現代では時代遅れではないか、と考えられることも多いと思います。確かに、現代では生命が危ぶまれるような場面は日常生活の中でほとんどありませんし、刀を持って出歩くことも許されていません。そのため、常識的に考えれば、技、精神とも時代遅れで役立たないと考えられるのはおかしくありません。

しかし、それを踏まえても、やはり私は現代でも武道に価値があると考えています。それを説明する前に、現代とは如何なる時代か、から私の捉え方を述べていきたいと思います。

2章:現代という時代の特徴

私がこの記事で述べたいのは、現代における武道を学ぶ意義であり、その結論はやはり現代に武道を学ぶ意義があるということです。

ではなぜ、古臭いとすら思われる古来の技や精神を、大きく変化した時代を生きる現代人が学ぶ価値があるのでしょうか。

結論から言えば、武道を通じて自分の生と真剣に向き合うことでよく生きることができるようになるため、であると考えます。

2-1:現代社会に欠けている生き方の指針

そもそも、現代の日本社会では、多くの人が「生きづらい」「自分の人生が分からない」と悩んでいるようです。またストレス過多で病んだり、自殺する人が多いこともよく知られており、社会問題化しています。

これはいつの時代でもそれなりにあったことかもしれませんが、生き方に関する悩みや不安、過度なストレスで自殺を選ぶほど追い込まれるのは現代特有なのではないでしょうか。

このような社会問題が生まれるようになったのは、もちろん経済問題を中心とした社会背景もありますが、もう一つの理由として、自分の生き方についての指針がないことがあるのではないかと考えています。

近代以前は、そもそも現代ほどの自由な人生はなく、たいていの人は生まれたときの身分のまま、家族や共同体に縛られて生きていたのでしょう。また宗教や伝統的な慣習による縛りも多く、仕事や結婚といった人生における選択肢も、生活様式も、考え方も、現代のような自由がなかったのだと思います。それは窮屈である一方で、様々なことを自己決定し自分で責任を負わなければならない現代とは異なります。個々人が共同体から解放され、宗教や慣習の縛りも弱くなった現代だからこそ、自分の生き方も、価値観も、何でも自分で決めなければならなくなった。そのために、その自由の重みに耐えらないことが、現代人特有の悩みだと考えています。

このように、近代以降、個々人が原子のように独立して存在するようになったことを、哲学者のハンナ・アーレントは「アトム化」と呼びました。また、社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、このような自由の重みに耐えられないことから、人々は生き方や自分の価値観まで「こうすれば良い」「こうすれば社会が良くなる」と分かりやすく提示してくれる、全体主義に傾倒し、それが第二次世界大戦に繋がったのだ『自由からの逃走』で説明しています。

フロムの主張することは、現代でも起こり得ます。社会の混迷から「こうすれば改善される」「こうすれば幸せになれる」と分かりやすく説明してくれる政治家や宗教家に傾倒する人も少なくないでしょう。経済格差が拡大し困窮する人が増えている昨今、ポピュリズムが台頭しているのも当時と同じ理由ではないかと思います。

また、明るい未来や「やりがい」を提示してくれるブラック企業に入ってしまったり、詐欺的なビジネスに巻き込まれる人も少なくありません。

このように、現代人は自由、自己決定の重みから解放されようと、情報を与えてくれる他者に依存してしまい、その結果自分の人生のコントロールを失ってしまうことが多いのだと思います。

2-2:認めてもらうことを求める現代人

また、現代人特有の問題は自由の重みだけではありません。「アトム化」と同時に社会が流動的になったことから、転職など何度も人生のステージを変更しながら生きなければならない人も増えたため、周りの人に自分の存在を認めてもらうことが重視されるようになったのだと思います。それゆえに「存在を認めてもらえない」ことで悩み、孤独を感じる人が増えたのではないでしょうか。

自由の重み、存在を認めてもらえない(認めてもらいたい)という現代人特有の悩みがあるからと言って、昔の社会に戻れば良いとは思いません。個々人は「アトム化」して悩みを抱えることになったとしても、そのような社会の変化と文明の発達は表裏一体であり、その結果、庶民でもある程度便利で豊かな生活ができるようになったのですから。

では、自由、自己決定の重み、存在を認めてもらいたいといった「アトム化」による現代人の悩みにはどう対処したら良いのでしょうか。どうしたら、強い他者に依存して生き方を誤ることなく、かつストレスで押しつぶされずに生きていくことができるのでしょうか。

私はこのような悩みの解決のためには、武道の文化が役立つと考えています。

3章:現代における武道を学ぶ意義

前置きの議論が非常に長くなってしまったため、いったんここまでを整理します。

31:ここまでのまとめ

まず、私の考える「武道」とは「武技を用いた生命を懸けた勝負の道」を本質とするもので、それは歴史の中で生成発展してきた精妙な技の文化と、禅的な揺れない心を身に付ける精神の文化を統合させたものだということでした。

また、その「武道」が、なぜ現代においても学ぶべきものなのか説明するために、現代人が抱える悩みについて整理しました。私の捉え方ではありますが、現代人の悩みとは、近代以降に仕事、結婚などの人生や生活、思想、価値観までもが自由に選べるようになったために、かえって個々人にかかる負担が増えたこと。そのために自由から逃走して強い他者に依存しようとしたり、一人で自由の負担を抱えてストレス過多になってしまうこと。また、流動的な社会の中で自分を認めてもらうために他者の評価に依存し、評価されないことで孤独を感じるようになってしまうことなどがあるということです。

かつては「縛り」にもなっていたものがなくなり、自由を享受できるようになると共に、一人ひとりが何でも自分で決めて、自分で行動の責任を負わなければならなくなった。それは現代の良い面ですが、一人ひとりに強いストレスを負わせるという意味では悪く働くこともあるのです。

このような現代社会において、一人ひとりがよりよく生きるためにはどうしたら良いのでしょうか。一回限りの人生を全うし、生ききるためにはどうしたら良いのでしょうか。少なくともそれは、強い者に依存することでも、特定の価値観に傾倒して思考停止することでも、目先の快楽を享受するだけの消費主義的な人生を生きることでもないはずだ、と私は思います。

結論から言えば、現代人がよりよく生きるためには、真剣勝負を旨とする武道を通じて揺れない心を身に付けていくこと、さらに自らの生と真剣に向き合い自分の「道」を創出していくことが、その手段の一つになると考えています。こう書いてみると我田引水というか、牽強付会な議論になっている気もしますが、現時点の私の個人的な考えということで、説明を進めます。

32:武道の持つ精神的側面の価値

上記の私の「結論」には2つの議論が入っているため、簡単な方から説明します。

揺れない心を身に付けること

1つは、武道を通じて揺れない心を身に付けることです。これは、前述の南郷継正先生も論じています。南郷先生によると、現代における武道を学ぶ意義には①自分の身を守る(護身)のため➁主体性の確立のため、という2点にあるとされています(参考:現代社『南郷継正武道哲学講義全集』第八巻、もしくは三一書房『武道とは何かー武道綱要』)。私が論じているのは➁の主体性の確立の議論と重なります。➁の議論とは、武道の修業・修行を通じて揺れない心を身に付け、どのような場面も、どのような相手も恐れず主体的に行動できるようにしていく、ということです。前述のように、武道は生命を懸けて戦わなければならなかった武士たちが実践の中から生み出したものですので、揺れない心を身に付けることは必須でした。そのため、その実践の中から生まれた境地を想定しながら、技の鍛練を通じてそこに至ることを目指すことで、揺れない心を身に付ける修行となります。

禅的な修行と異なるのは、禅が座禅をはじめとする宗教的な修行によって境地を目指すのに対し、武道は実体的な技の修業を通じて境地を目指すものである、ということです。

自分の生と向き合うこと

そして、さらに重要なのが、上記の「結論」に書いた2つ目の議論です。

そもそも、過去の武人たちが、武技という殺し合いにおいて通用する技を身に付けることにとどまらず、「心」についての非常に高度な境地に至ることができたのはなぜでしょうか。また宮本武蔵『五輪書』や柳生の『兵法家伝書』をはじめとした優れた著作や、優れた芸術作品を生み出すことができたのはなぜでしょうか。それは、武蔵のような武人たちは、生命を懸けた勝負という人間として究極の場面を想定しながら修業・修行する中で「死」と真剣に向き合うと同時に「生」とも同時に向き合ってきたからではないでしょうか。そうして自らの「生」と真剣に向き合う中で人格を陶冶し、自分の「道」を切り拓いて生きた。自分だけの人生を創出していった。そのような真剣な生き方を全うしたからこそ、単に武技に優れた武人としてだけでなく、幅広い活躍ができたのだと思います。

33:武道の精神的側面を学び、現代人としての生き方に活かすこと

このような武人たちの生き方を、私たちは武道を通して学ぶことができます。武道を通じて武人たちのように生きることを学び、それを現代人としての自分の生き方に活かすことができる、それが現代における武道を学ぶ意義ではないかと思います。

前述のように、私が考える現代人の悩みは、個人主義的、自由主義的な社会になった副作用のようなものです。「アトム化」と自由な社会になったことで、かえって拠り所を失ってしまったのではないか、ということです。このような時代によりよく生きるためには、自分の生き方を自分で創造し、世の中の害悪になり得る価値観と距離を置き、他者に翻弄されず、主体的に生きることが重要だと私は思います。自分だけでそのような生き方をゼロから生み出そうとすることは、なかなか難しいことだと思います。そのため、そのような生き方をした先人から学ぶことが大事なのです。

過去の武人たちは、真剣勝負を前提とした武道を修業・修行することで真剣に「死」と「生」と向き合い、その結果自分の人生を「道」として創造することができたのでしょう。そのため、私たち現代人も「道」と言えるようなよりよい生き方をするために、武道を通じた修業・修行が役に立つであろうと私は考えています。

「それなら、過去の剣豪らが書いた著作を読んで学べばいいのではないか」という反論もありそうです。しかし、剣豪が書いた著作をただ読むだけではその境地を理解することは難しいでしょう。自分の身体を使って武技を磨き、稽古の中で実際に試し、いかに技が精神的緊張によって不正確になってしまうのか、など自分の心の揺れを感じながら、そして稽古の中でそれを乗り越えながら、揺れない心を身に付けていくこと。それと共に「生」と「死」についてよく考え、自分の「生=人生」を真剣に考えていくこと。そのようなことをしなければ、本来の武道が持つ文化的な高みを身に付けていくことは難しいと思います。

昔の武士たちのように、自分の生命が奪われるという機会がほとんどない現代人にとって、自分の生死と向き合うことはなかなか難しいことだと思います。しかし、人間は必ず死ぬ存在であり、人生は一回きりしかないのですから、自分の生死とはどこかで必ず向き合わなければならなくなります。そのため、武道を通じて意識的に自分の生死と向き合い、生き方を創造していくことが大事だと私は考えています。

まとめ

以上、現在私が考える武道を学ぶ意義について書いてきました。

簡単にまとめると、現代における武道を学ぶ意義とは、武道の修業・修行を通じて自分の生死と向き合い、自分なりの生き方、人生を創造していくことができるということでした。

その理由は、武道というものが生死を懸けて戦った武人たちが生み出した文化であり、単なる武術的な強さだけでなく、芸道の「道」の思想や禅の影響を受けて、精神的側面、文化的側面も発達したからです。そのため、武道を通じて、本来の武道が持つ文化を学ぶことで、個人主義的、自由主義的現代社会でも自分の人生を創造して生きていくことができるのではないか、というのが私の主張です。

このように書くと、私が武道の精神的側面だけを重視しているように見えてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。武道が現代人にとってどういう意義があるか?という切り口から書いたため、このような内容になりました。

私自身は、こうした心の修行も念頭に置きつつ、二天一流の精妙な術技を追求したいと考えており、そのための修業も続けています。この点においても、二天一流の継承者、修業者たちがどのような技を持っていたのか研究し、また一人でも、他に会員・門人の方々と実践しながら探究する必要があります。

また、この記事では武道の持つ精神的側面について、一般性的なレベルで述べてきました。実際の所、過去の剣豪の至った境地がどういうものだったのか、宮本武蔵が至った境地とはどういうものか、などを明らかにしているわけではありません。そのため、これらについてもこれから研究していく必要があります。

しかし、この文章を書くことで、現時点での私の考えを整理することができ、これからやるべき課題も明確にすることができました。南郷先生の言う通り「書くことは考えることである」をこれからも実践することで、これからも少しずつ考えを深めていくことができそうです。

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