稽古法

複数の武道・武術を並行して鍛練する意義と問題点

2022年2月25日

玄信会の会員と下記の論点についてFB上で議論を行ないました。この議論を通じて考えたことをまとめます。

この議論はある先輩会員が提示したものから始まりましたが、私自身もここ最近考え、実践していたことと通じる内容でした。そもそも、二天一流は二刀流を主体とする流派ではありますが、過去には柔術の体系もあったようです。もともと武術は総合武術であり、武士は武芸十八般に通じることが求められていましたので、二天一流に体術的な体系があることは全くおかしくありません。しかし、残念ながら体術の技は歴史の中で失伝してしまい、現在は残っていません。小太刀などの型の中に体術的な要素が残されていますが、体術そのものとしての型はありません。

しかし、高度な技術を持つ他流を見ると、体術的な体系も持っていることが多いです。その代表が黒田鉄山氏の振武館です。そして、我々も将来的には体術的な体系を創出するべきではないかと考えました。その理由を簡単に言えば、体術は剣術以上に技の「効く・効かない」がはっきりするため、体術の鍛練を通じて剣術の技も高度化できるのではないか、ということです。現状、体術の体系を持たない二天一流が、体術的な体系を創出するとしたらどうしたらいいのか、黒田氏の流派からどういうことが学べるのか、という問題意識から議論しました。その内容と私が考えたことをまとめます。

二天一流においても将来的に体術を創出していくべきではないか

まず、二天一流にも体術が必要ではないか、という論点については大きく2つの意義が考えられます。

1つが勝負論的な見地から考えた意義です。そもそも二天一流をはじめとする武道は真剣勝負を前提としたものです。二天一流の本質は二刀を用いて真剣勝負に勝つことにありますが、真剣勝負の場で必ずしも二刀を持っているとは限りません。刀を奪われる、そもそも帯刀していない、二刀を使う空間的な余裕がない、怪我で両手が使えない、など様々な状況が考えられます。

そもそも、武蔵先生も二刀だけに拘っているのではなかったようですので、私たちも二刀だけでなく、一刀でも、そして無刀でも真剣勝負で敵に勝つことができる技を目指すべきです。そのために体術の研鑽も必要であろうということです。

また、現代人である私たちが武道の技を直接的に役立てるとしたら、危機的状況における「護身」が唯一であると思われますが、現代社会で真剣を使うわけにいきませんので、無刀での技(体術)を使えるようになっておくことは意義があります。

もう1つの意義が、上達論的な見地から考えたものです。端的に言えば、体術は剣術よりも技の「効く・効かない」がよりシビアに求められ、そのレベルの身体の使い方を身につける必要があるため、剣術の上達のためにも鍛練する意義があるということです。

そもそも剣術でも、より強い斬撃、より察知されにくい動きなどを求めていきますが、真剣という強力な武器を使うことを前提としています。しかし体術では、剣術における真剣に相当する武器を自らの五体に創出していかなければなりません。そのため、技の威力、精度がよりシビアに求められる面があるのです。空手などの打撃系であれば、一撃で敵に致命傷を与える打撃を、柔術などの投げ・関節技系であれば、一瞬で相手を崩して投げ、極めに入る技が必要になります。

別の言い方をすれば「当てれば致命傷」の剣術と、「相当なレベルじゃなければ当てても致命傷にならない」体術の違いです。そのため、体術を鍛錬してよりシビアな「効く技・動き」を身につけ、それを剣術の鍛練にも活用することで、剣術の技もレベルアップさせることができるのではないかということです。

ただし、ここで重要になるのが、剣術と体術が根底では同じ動き・身体操作によって支えられているということです。個別具体的な技・型のレベルでは全く違う動きになりますが、構造レベルでは同じ動き・身体操作になっているということです。私たちの流派で言えば「一重身」「入身」などは、仮に体術を行う事になっても同じ身体操作になるでしょう。この部分を構造的なレベルでの技?と考えています。黒田氏の流派で言えば「無足の法」「順体」などと言われるものがそれに当たると考えられます。ただし、複数の武道の技術体系を安易に並行して学び、活用し合おうとすれば、結果的に一方、もしくは双方の技が劣化してしまう場合もあるため、この問題をクリアしていく必要があります。

複数の武道・武術を修業することで相互浸透によって技の劣化が起こりうることについて

複数の武道を並行して学ぶことの問題点は、南郷継正先生の著作で説かれています。そこであげられているのは、たとえば合気道の打撃についてです。合気道では通常はありえない打撃(打った後に引かない突きや手刀での面など)を行い、それに対して技をかけるということがあり、これは安易に打撃を取り入れたために、打撃の方が型のための技になってしまったということです。

このような打撃を取り入れてしまうと、合気道の技(投げ、極めなど)もそのレベルの打撃に合わせたものになってしまうため、技が質的に向上しないというのが南郷先生の議論の要点です。簡単に言えば、空手の有段者の打撃(突いたら素早く引く、連続的に攻撃してくる、など)に対して、同じ技がどれだけ通用するか、ということです。これは一例ですが、様々な武道・武術においてこの問題は発生しえます。複数の武道・武術を学ぶと、意識的、無意識的な相互浸透が起こってしまい、足を引っ張り合って技が劣化する場合があるということです。そのため、南郷先生の著作では、武道を複数学ぶなら、あくまで別物として、相互浸透させずに学ぶべきであるということが説かれています。

現在、私が修業している兵法二天一流は剣術のみの技術体系となっており、他の武道・武術を修業している者もいますが(私もそうですが)あくまで別個のものとして行っています。そのため、このような相互浸透的劣化は起こっていません。しかし、今後「二天一流における体術」というものを研究していくのであれば、上記の問題点をクリアしていかなければならないのです。この点についても会員との議論を行いました。そこで学ぶべき対象として上がったのが、複数の武術を並行して継承してきたことで、むしろ相互浸透的発展することができた黒田氏の流派です。

複数の武術が相互浸透的発展できた例

この論点を提示したのは私ですが、簡単にこの論点をまとめると「通常は複数の武術を同じ体系にすると相互浸透的劣化が起こるのに、黒田氏の流派では発展していった。この違いは何か?」ということです。

これに対して別の会員からは「真剣勝負を想定していたか否かであろう」という意見が出ました。また、この議論を提示した会員は黒田氏の流派の歴史を振り返りつつ、それぞれの武術はあくまで別物として修業してきた(剣術は剣術、柔術は柔術として)ためではないか、という意見でした。私は本質論レベルでは真剣勝負を想定していたかどうか、ということであると考えました。しかし、私たちが二天一流の体術を創出すると考えると、真剣勝負を想定するだけでなく、それ以上のものを黒田氏の流派から学ぶ必要があると考えました。そこで私が考えたのは、個別具体的な技レベルでは相互浸透させずに学びつつも、技の構造レベルの部分については他流からも学んでいくこと、活用することが大事ではないかということです。

技・型のレベルでは変えずに、しかし身体操作的なより根底の部分の動きは、他流から学んで発展させていく、また体術の創出に役立てていくことが重要ではないかということです。また、そのためには、二天一流の動きそのものを剣術を通じて究明し、その中にある構造的な技・動きの部分を明確にしていくことも必要であると考えました。

さらに会員からは、黒田氏の流派では、複数の流派を並行して継承するうちに自然に相互浸透が起こっていったのだろうが、二天一流には現状体術がない。そのため、空手から始まり居合や合気の体系も創出していった南郷先生の流派に近く、南郷先生の流派の論理から学ぶ必要があるのではないか、という意見も出ました。この点について、私も同じ意見です。

ここまでを整理すると、二天一流の発展のためにも体術的な鍛練が重要と考えられるが、安易に体術を取り入れようとしても技が引っ張られて相互浸透的な劣化が起こりえる、そのためその点は理論を用いて解決できるようにしつつ、優れた他流から技の構造的な部分を学び取っていくべき、ということになると思います。私自身、すでに沖縄空手などを去年から初めており、体術から学べるものを学ぼうとしています。ひとまずは二天一流とは別物として学んでいく考えですが、いずれはそこから学び取ったものから技の構造的な部分を捉え、二天一流の技にも活用していけるようにしたいと考えています。

議論を通じて

今回の議論を通じて、まず議論をすること、考えを言葉にしていくことの重要性を再認識しました。なんとなく考えていた考えが明確になり、これからすべきことが明らかになりました。考えは通常頭の中で断片的に、曖昧な形で浮遊しているような状態ですが、言葉にしてまとめることは、曖昧な形の考えに明確な形を与え、掴み取りやすくすることになります。また議論して、その考えの問題点を指摘したり異なる視点から意見をもらうことで、さらに発展していくこともできます。兵法二天一流玄信会では、以前から議論が奨励されていましたが、今後もこのような機会を作っていくことが重要だろうと思います。

さらに言えば、このように議論したことをまとめていくことも重要です。私が学生時代に入っていたとある会では、議論したことは必ず全員が自分の文章としてレポートにまとめていました。まとめることで、学んだことを血肉にしていくことができるからです。また、議論は通常広がりのあるものとなりますが、まとめることでそこに論理的な筋を通し、それを通じて論理能力を鍛えることもできます。今後も書くことを日常化していきたいです。

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