稽古法

武術における「身体操作」「遊び稽古」のメリット・デメリット

現代の武術に関する雑誌、ネットなどで見かける情報から、武術に特有の身体操作を取り出したものだったり、その流派に特徴的な動き、操作を取り出した「遊び稽古」というようなものをよく見かけます。

個別具体的な技、型から一旦離れて、その技、型に共通する身体操作を取り出す、というのは昔からよく見かけた気はします。例えば、力では対抗できないような状況を作り出して、そこから特有の身体操作で相手を崩す、などはよく見かけます。

身体操作、遊び稽古のメリット

このような稽古は私もやっていますが、特有の身体操作や感覚を掴みやすいという大きなメリットがあります。昔なら個別具体的な技、型の鍛練を通じて少しずつ感覚を獲得していったのでしょうが、今では、その身体操作や感覚にフォーカスした稽古法(遊び稽古)があるため、武術特有の動きを獲得しやすくなっているのかもしれません。

また、このよう「身体操作」に特化した「遊び稽古」のようなものは、武術の未経験者に武術の魅力を簡単に知ってもらえるとか、武術特有の動きを武術以外の分野(スポーツなど)に応用してもらいやすいというメリットもあります。武術の動きそのものは闘争のためにものですので、現代社会で現実的に役立つことは少ないです(護身くらいです)。そのため、このように武術の動きそのものを取り出し、いろいろと役立ててもらいやすい形にすること自体は否定しません。

身体操作、遊び稽古のデメリット

ただし、私は一応古流剣術を継承する立場にありますので、このような「遊び稽古」的なものの問題点も言語化しておきたいです。

そもそも、このような「遊び稽古」は、その流派に伝わる個別具体的な技、型から、その技、型を支える構造的な技、動きなどを抽出したようなものだと思います。私たちの流派でも「ねばりをかける」とか「入身」「切先返し」といった多くの技に共通する動き、感覚があります。これがいわば多様な技、型に共通する構造的な部分の技、動きだと捉えられます。このように、「遊び稽古」で行うような身体操作というものは、その流派の個別具体的な技の構造にまで分け入る実力が必要とされるものです。

そのため、武術的な技量はもちろんのこと、論理に考える力も必要です。実力が未熟な指導者が、自分勝手に「うちの流派の技の構造にはこういうものがある」と考えて「遊び稽古」をやってしまうと、間違った動き、感覚を身につけてしまう危険性があります。

さらに「遊び稽古」ばかり行うことによって、稽古が武術の本質から離れてしまう危険性もあります。

そもそも、武道・武術の本質は、武技を用いての生命を懸けた勝負で負けないこと、勝つことにあります。そのため、あらゆる鍛練は真剣勝負に勝つための動きを身につける、という目的から一貫したものである必要があります。現代における武道・武術の考え方として、これは「堅いな」と思われる場合もあるかもしれませんが、この本質をしっかり捉えた上で真剣に鍛練することでしか、古来の武人たちが残してくれた技、精神を身につけることはできないのだと考えています。

この点を詳しく論じると長くなるので省略しますが、端的に言えば、人間は認識によって統括された存在であるため、普段の稽古においてどのような認識(心がけ)を持っているか?が実技のレベルにも強く関わってくる、ということです。

したがって、「遊び稽古」は、それがあくまで真剣勝負を前提とした技を身につける上での体系の一部である、と把握して行うならいい稽古になると思います。しかし「遊び稽古」ばかりをやって、それが「真剣勝負に勝つための鍛練の一部である」ということを忘れてしまうと、武道・武術から離れたものになってしまうと思います。その武道・武術の技の本質は、稽古時における認識によって追究されるものです。そのため「遊び稽古」とはあくまで、特有の身体操作や感覚を得るために補助的に行うものであり、鍛練の中心は個別具体的な技、型などにあるべきだと私は考えています。

元の技、型から離れた「遊び稽古」や「身体操作」ばかりやっていると、それは武道・武術ではなく何か別のものになってしまうでしょう。人間の身体の可能性は非常に大きいため、さまざまな、一見不思議な動きができるようになるものなのだと思います。そのため、武道・武術の継承者であれば、いろいろな身体操作を行うのではなく、武道・武術のための「遊び稽古」「身体操作」を鍛練すると言う、一種の制限をかけておくことが大事だろうというのが私の考えです。

付け加えると「遊び稽古」や個別の技、型から離れた「身体操作」を重点的に行なっていると、世代を超えて継承するうちに本質から外れやすくなると思います。やりやすく、わかりやすい「遊び稽古」の方がその流派の本質であるとズレた捉え方をなされるようになるのではないか、ということです。継承者、指導者という流派の歴史に責任を負う立場であれば、後世への継承までを考えて鍛練体系を創出するべきです。そのため、私は「遊び稽古」のような稽古はあくまで補助的なものと考え、実践するようにしたいと考えています。

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